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今年は椎葉村の皆さんに出会えて、本当に良かった!!

想い
12 /26 2017
今年は観光大使という使命をいただき、一年中頭は椎葉村のことでいっぱいでした。
道があるとはいえ、幾重にも折り重なる、山深い険しい道を通りようやくたどり着くことができる、そんな秘境の地に住む椎葉村の皆さんに出会うことができました。
椎葉村の魅力を一生懸命伝えてまりました。

鶴富屋敷(国指定重要文化財)

仙人の棚田

先月もMRT宮崎放送に出演させていただき、私は椎葉村の3大魅力をこのように語りました。

①椎葉村には、平家の落人集落として800年以上の歴史を持ち、今も平家と源氏の子孫が仲良く暮らしていること。

②民俗学的に高い評価を受けていること。
 (人と森と動物たちの先人の知恵があること)

③何といっても村の人の優しさ、たくましさ、そして謙虚さ、であると思います。

私は、日本古来の文化を伝承しつつ、日本一美しい、こんな村が椎葉村を除いてほかに存在するのだろうか、
と首をかしげるほど、希少性のある日本を代表する村であると思います。

今年はこんな素晴らしい椎葉村の方々に出会え、また、アンテナショップとしてお役に立てたこと、本当に感謝申し上げます。

椎葉のことを勉強していますと、不思議なパワーがわいてくるのです。
自然界の中で、人間として存在している私たちですが、椎葉の山や森にすむ動物たちの命も一つとして無駄な存在はない。
つまり、私たちは一人ひとりがかけがえのない存在であること。

生活が日進月歩して過ぎたために、人間が身勝手になってしまった!!
都会に住んでみて感じた想いを胸に、来年も椎葉の魅力に迫ります。
どうぞご期待くださいね。

椎葉村観光協会より、感謝の気持ちということで、
「ますますきれいになってください」とプレゼントをいただきました♪

哉子社長_化粧品

皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。

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何故?今、椎葉村観光大使を引き受けたのか?

想い
08 /20 2017
私は、山を背に、目の前が黒潮踊る本州最南端の串本町で生まれ育ちました。

日本三大秘境の一つ、「平家の落人伝説」で知られる椎葉村とのご縁ができたのは、
昭和53年に椎葉村出身の夫である、現椎葉工務店会長と結婚したことでした。
夫は22歳の時に無一文で起業いたしました。
遠い昔の話になりますが、夫はよく、山奥に住む純情な人の優しさにつけ込まれ、都会に住む身勝手な人から
騙されてきました。
その度に私はお金に苦労し、子供をおんぶして夜中まで働き、幾多の苦難を乗り越えてまいりました。
七転八起の精神で、やっとここまで辿り着くことができました。

皆さま方が生きていくうえで、「何」を最も大切とされていますか?
大自然の中で育てられた人には、
日本人の多くの心の奥に眠っているに違いない、情に満ちた優しさがあります。

お金儲けの下手な夫とともに苦労の連続でしたが、山村で暮らした
「がまん強い・忍耐力・諦めない心」は今日まで歩んできた人生の糧となりました。

人生を振り返り、敵も味方もない、位も権力も意味を持たない、「静かに人生を考えてみる」
にふさわしい椎葉村を顧みずにはいられません。

今、忘れられていた故郷が立ち現われてきた感動に打たれています。
日本三大秘境である椎葉村は、現在人口3000人を切ったと聞いて、私自身慌てています。
行政の対応が「日本一美しい小さな村」にまで手の届く政治であってほしいとの願いを含めて、
任務をお引き受けさせていただきました。

最後に一言、
「山の人は粘り強い!! 負けたらあかんで!」
椎葉村で暮らす人々にエールを送り続けたいと思います。

社屋_リサイズ

私が選ぶ、椎葉村の魅力 ベスト3

①源平合戦以降、平家の落人集落は日本に多く存在しますが、
 平家と源氏が仲良く暮らした村は、椎葉村以外に存在しない!
 それはなぜ、、、?

②山合の地に、何百年も前から継続し続けてきた、神楽の文化とは?

③日本人らしい文化、「かて~りの里」とは?

亡き父を偲んで

想い
10 /29 2016
ユーモアあふれる父の教えとは!
 
父は物事を深刻にとらえすぎないユーモアの持ち主でした。そして生前から笑いが苦しい事をおもしろく、人生を豊かに変えると言っていました。

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 亡くなる一ヶ月前、病院にお見舞いに行ったときの話です。父は私の娘の前でこう言ったそうです。「こんなところに来る暇があったら帰ってはよう男前に写った遺影の写真を選んでこい!」悲しみと失意のどん底で皆を笑わせようと、言葉が出にくい状態の中でとりつくろっている姿に、私はもう涙がでて、そして父の凄い生命力を感じました。
 また昭和史を生き抜いた人の凄い想像力とユーモアは父の俳句として詠まれ、全国版にも登場しています。


父の背中と母の愛

二人の生き方が私の原点です。

 串本高校英文科一期生として大学進学する際にこんなエピソードがありました。「女やから大学まで行かんでええ。」という父に対して母だけは「哉子のすきな様にしたらいい」と、父を説得してくれました。おまけに母と祖母は当時夜遅くミシン縫いの内職までして、お金を仕送りしてくれました。その苦労を痛いほどに感じていた私は何があってもこの両親だけは悲しませることがあってはならない・・・。と決意したのでした。

 大学卒業後、事業家の主人と出会い〝社会で光る存在に〟と心を固めて日々努力して参りました。自分で決めたこととはいえ、商売人の暮らしは厳しくその後の苦労は想像に余りあるものでした。「七転び八起き」の精神で私はおしんの様に働き、朝の連続ドラマのような細腕繁盛記を築いてきたのです。そして父親ゆずりのアイデアとユーモアで事業を次々と発展させる事ができました。ついには大阪北部にある枚方市(人口約四二万人)で知らない人がいない会社にのぼりつける事ができました.
 私自身三三名の社員を育て、社長を務めあげる会社に数々の功績を残してきましたが、サラリーマン家庭で育った私には商売のいろはを手取り足取りどこで教えてもらった訳でもありません。
事業の成功の影には父の誠実に働く姿勢、夫に寄り添うように尽くしている優しい母・・・。この二人の生き方が、どのような苦難に遭遇した時も生きる力を与えてくれたのでした。

 私の若い頃の話ですが、見知らぬ人ばかりの都会の中で、時には自分に負けて決意がゆらいでゆく時、思い通りに行かない時、辛く苦しい時、いつも母は口癖のようにこう言いました。「苦しいときもあれば良いときもあるから頑張らんし。」
 私の歩く道筋には、いつも学校では教えてもらえない父と母の生きる姿という教科書がありました。その両親の姿が教えがとなり、私はくじけても転んでも立ち上がる事ができたのだと思います。
 そして業界の中で枚方随一の企業としてその名を馳せるまでになったのは何事も研究熱心な父のDNAを受け継いでいるからだと思います。


終戦記念日に逝った父の記憶

 父は八月十五日終戦記念日をあえて選んで逝ってしまったように思います。戦争体験の持ち主が年々減り、「ほんとうの平和とは何か・・・」を問い、そして平和を祈るような故人の命日になりました。
 生前の父はよくこんな事を話していました。「赤紙が届いたその日に終戦となり八月十五日がどれほどありがたいか!毎日が八月十五日だったらいい。誰に気兼ねするでもなく、飲んで食べれたらそれでいい・・・。」と。
 そんな父と舞鶴にある戦争引揚者記念館を訪れた時には、戦争で亡くした遺骨を胸にする写真の前で「わぁーかわいそうに・・・」と泣き崩れてしまいました。
 昭和という激動の世の中を生き抜いた父は正義感が強く働くことが好きで何事にも屈せず、笑い飛ばす強さを持っていました。私は今年の父の日に日本製のサンダルとパジャマを贈りました。今思えば、虫の知らせだったのかもしれません。その時に交わした会話が親子で語り合う最後の想い出となってしまいました。

私「お父ちゃんいったいいくつになったの?」

父「ワッハッハ。今更何や!このわしに歳を言えてか!知らん、もう忘れた!」暫くして、「来月の七月二十三日で九十歳になるんや!いつお迎えが来てもおかしくないんやけどなぁー」

その三日後、脳梗塞を患い、南和歌山医療センターへ運ばれました。
 大阪から白浜まで、高速を二時間三十分かけ病院を往復しました。入院中の父は、右手右足と言語障害があるにもかかわらず、「お前、事業はうまくいっているのか?頑張れ!」親にとっては子供はいつまでたっても子供なのでしょう。命が尽きる瞬間まで心配してくれている・・・。私はこの時、親の存在がいかに偉大であるかを悟りました。私は病院のトイレの中で「お父ちゃん育ててくれてありがとう。」と叫びながら涙が止まりませんでした。
 父が亡くなって三週間が過ぎた頃でした。夕立が上がった空を見上げ、父を想い出し「お父ちゃんどこにいてるの?返事してよ。」すると雲と雲の間からうっすらときれいな虹がさしてきました。「こっちこっち!頑張れよ!いつも見ているからな!」父の声が聞こえてきたのでした。
 父は自然を愛し、田並の皆様に愛されながら旅立って逝きました。戦前戦後の試練と向き合い克服していった最高に幸せな人生であったと思います。そして晩年は、優しい母と築いた人生は光輝いていました。


最後にもう一言・・・

私「お父ちゃん平和に暮らすってどんな事?」
父「むずかしい事はわからんけど、生きている事を楽しむことやないか。今ある最も平凡な暮らしにそそ平和な暮らしがあるんじゃないか?その為にはひとりを大切に地域の隣人を大切に友情を育む事が平和に生きる事じゃないか?日本人は聖徳太子の時代から十七条憲法でも『和をもって尊しとなし・・・』と言ったじゃないか。日本人は昔から相手を重んじてきた国民だ。多少の苦労はあったにせよ生きてさえいれば良かったと思える日がきっと訪れる。残念ながら、今さえ良ければ、自分さえ良ければいいと思う人には幸せに生きるための道は開かれない!むずかしい事はどうでもいい。地位や名誉を重んじる人間はだんだんとあきが来る。三途の川を渡るのも六文銭があればいいからな。今が一番と思って日々の努力を尽くして乗り越えることが大切だと思う。平和な暮らしとはこんなもんじゃないか?戦時中に比べたら、人の心が薄らいできたのが心残りじゃが・・・ 皆さん、とにかく元気を出して頑張って下さい!またいつか再会できる日までお先に失礼します。ワッハッハ!ばあさんと仲良くしてあげて下さい。よろしく頼みます。」

そんなふうに父の声が聴こえてくるのです。

 人の喜びを我が喜びとし、利他の精神(他人の利益を優先にする考え)にて、苦悩する人に寄り添い、それでいて見返りを求めない限りある人生を最期までユーモアたっぷりに生き抜いたそんな平凡な老人が皆様のおそばで暮らしていたことを時折思い出して頂けましたら故人も喜ぶことでしょう。

 ゆく秋の寂しさをしみじみ感じるこの頃・・・主のいない家に渡り鳥がやってくる事でしょう。自然が好きだった父はあの世でどんな句を詠んでいるのだろう・・・。ぜひ父と話してみたいと思いました。

「一人のために一軒のために」ありがとうの花でうめつくしたい! が現実のものに!!

想い
06 /14 2016
「お家のかかりつけ医でいたい!そしてありがとうの声でこの街をうめつくしたい!!」との情熱と理想を掲げ、出発点として選んだこの地。多くのお客様と出会い一緒に歩んだ軌跡、それが私の原動力です。

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宮本輝 作の「三十光年の星たち」と言う著書の中で老人が青年にこう言います。
「人は10年でやっと階段の前に立てる。30年で階段を登りきるそして登りきったところから人生の本当の勝負が始まる」
私の人生もその通り事業を進めてゆく上で良いことは片手の指で数える程度・・・数々の苦難をあるがままに受け入れ全力で体当たりで築いて参りました。

枚方のとある美容室に行った時の話しです。横に座った女性の方がリフォームの話をしているのです。ある方が「リフォームするなら椎葉さんのところが良いよ。」するともう一人のお客様も、「うちも椎葉さんでキッチンしてもらったけど、色々提案してもらって明るくきれいにしてもらったわ。」本当に有難いお話となりました。

人においても子育てにおいてもこうなりたいと強い意志をもって望んだとしても、崩れることが多く、さらに人間関係においては不信感に陥ってしまうことがあるものです。要は思い描いたようには実現しません。しかし石の上にも30年同じ事をやっていると自ら、「こんな私でもここまできたのか。」と不思議なパワーを感じるものです。人はどんな時も自らの心を奮い立たせつつまさに命が尽きるその瞬間まで歩み続けなければならないのです。

私自身「苦労続きの人生もようやく人様から認められるようになった!」という歓喜と共に「一業にて一隅を照らす。」そんな使命を感じつつ限られてた人生を、今再び前を向いて歩き出すエネルギーが湧いてまいりました。
そして枚方の街中を「ありがとう!椎葉さんで頼んで良かった」というお声で埋め尽くしたい!!
まだまだ夢の舞台は広がりつつあります。

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『夢は叶う』 長い道のりの記

想い
03 /12 2015
42年前の春の日のこと、ふる里の和歌山県を離れ関西外大に入学しました。それは客室乗務員になりたいという夢を抱いていたからでした。しかし、事業をしたいと言う夫と出会いその夢は叶いませんでした。
それからというもの、命を燃やして仕事に全てを掛けました!。
CAになりたいという想いを叶えて空を飛ぶことはできませんでしたが、夫と共に夢を抱き、汗と涙を流し根性と執念で奇跡を起こし、輝いた日は光を失うことなく一生涯の財産となりました。
家づくりと言う夢の舞台へいざなえるよう、スタッフと力を合わせて「やっぱり椎葉に頼んでよかった!」と言って頂けるように私の心は燃えています。
最後にもう一言だけ。 『夢は叶う』
心からそう思える人生でありますように。
一歩踏み出して人生を歩いてみませんか。
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椎葉工務店

椎葉かな子が、椎葉村観光大使として想いを綴ります。

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