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亡き父を偲んで

想い
10 /29 2016
ユーモアあふれる父の教えとは!
 
父は物事を深刻にとらえすぎないユーモアの持ち主でした。そして生前から笑いが苦しい事をおもしろく、人生を豊かに変えると言っていました。

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 亡くなる一ヶ月前、病院にお見舞いに行ったときの話です。父は私の娘の前でこう言ったそうです。「こんなところに来る暇があったら帰ってはよう男前に写った遺影の写真を選んでこい!」悲しみと失意のどん底で皆を笑わせようと、言葉が出にくい状態の中でとりつくろっている姿に、私はもう涙がでて、そして父の凄い生命力を感じました。
 また昭和史を生き抜いた人の凄い想像力とユーモアは父の俳句として詠まれ、全国版にも登場しています。


父の背中と母の愛

二人の生き方が私の原点です。

 串本高校英文科一期生として大学進学する際にこんなエピソードがありました。「女やから大学まで行かんでええ。」という父に対して母だけは「哉子のすきな様にしたらいい」と、父を説得してくれました。おまけに母と祖母は当時夜遅くミシン縫いの内職までして、お金を仕送りしてくれました。その苦労を痛いほどに感じていた私は何があってもこの両親だけは悲しませることがあってはならない・・・。と決意したのでした。

 大学卒業後、事業家の主人と出会い〝社会で光る存在に〟と心を固めて日々努力して参りました。自分で決めたこととはいえ、商売人の暮らしは厳しくその後の苦労は想像に余りあるものでした。「七転び八起き」の精神で私はおしんの様に働き、朝の連続ドラマのような細腕繁盛記を築いてきたのです。そして父親ゆずりのアイデアとユーモアで事業を次々と発展させる事ができました。ついには大阪北部にある枚方市(人口約四二万人)で知らない人がいない会社にのぼりつける事ができました.
 私自身三三名の社員を育て、社長を務めあげる会社に数々の功績を残してきましたが、サラリーマン家庭で育った私には商売のいろはを手取り足取りどこで教えてもらった訳でもありません。
事業の成功の影には父の誠実に働く姿勢、夫に寄り添うように尽くしている優しい母・・・。この二人の生き方が、どのような苦難に遭遇した時も生きる力を与えてくれたのでした。

 私の若い頃の話ですが、見知らぬ人ばかりの都会の中で、時には自分に負けて決意がゆらいでゆく時、思い通りに行かない時、辛く苦しい時、いつも母は口癖のようにこう言いました。「苦しいときもあれば良いときもあるから頑張らんし。」
 私の歩く道筋には、いつも学校では教えてもらえない父と母の生きる姿という教科書がありました。その両親の姿が教えがとなり、私はくじけても転んでも立ち上がる事ができたのだと思います。
 そして業界の中で枚方随一の企業としてその名を馳せるまでになったのは何事も研究熱心な父のDNAを受け継いでいるからだと思います。


終戦記念日に逝った父の記憶

 父は八月十五日終戦記念日をあえて選んで逝ってしまったように思います。戦争体験の持ち主が年々減り、「ほんとうの平和とは何か・・・」を問い、そして平和を祈るような故人の命日になりました。
 生前の父はよくこんな事を話していました。「赤紙が届いたその日に終戦となり八月十五日がどれほどありがたいか!毎日が八月十五日だったらいい。誰に気兼ねするでもなく、飲んで食べれたらそれでいい・・・。」と。
 そんな父と舞鶴にある戦争引揚者記念館を訪れた時には、戦争で亡くした遺骨を胸にする写真の前で「わぁーかわいそうに・・・」と泣き崩れてしまいました。
 昭和という激動の世の中を生き抜いた父は正義感が強く働くことが好きで何事にも屈せず、笑い飛ばす強さを持っていました。私は今年の父の日に日本製のサンダルとパジャマを贈りました。今思えば、虫の知らせだったのかもしれません。その時に交わした会話が親子で語り合う最後の想い出となってしまいました。

私「お父ちゃんいったいいくつになったの?」

父「ワッハッハ。今更何や!このわしに歳を言えてか!知らん、もう忘れた!」暫くして、「来月の七月二十三日で九十歳になるんや!いつお迎えが来てもおかしくないんやけどなぁー」

その三日後、脳梗塞を患い、南和歌山医療センターへ運ばれました。
 大阪から白浜まで、高速を二時間三十分かけ病院を往復しました。入院中の父は、右手右足と言語障害があるにもかかわらず、「お前、事業はうまくいっているのか?頑張れ!」親にとっては子供はいつまでたっても子供なのでしょう。命が尽きる瞬間まで心配してくれている・・・。私はこの時、親の存在がいかに偉大であるかを悟りました。私は病院のトイレの中で「お父ちゃん育ててくれてありがとう。」と叫びながら涙が止まりませんでした。
 父が亡くなって三週間が過ぎた頃でした。夕立が上がった空を見上げ、父を想い出し「お父ちゃんどこにいてるの?返事してよ。」すると雲と雲の間からうっすらときれいな虹がさしてきました。「こっちこっち!頑張れよ!いつも見ているからな!」父の声が聞こえてきたのでした。
 父は自然を愛し、田並の皆様に愛されながら旅立って逝きました。戦前戦後の試練と向き合い克服していった最高に幸せな人生であったと思います。そして晩年は、優しい母と築いた人生は光輝いていました。


最後にもう一言・・・

私「お父ちゃん平和に暮らすってどんな事?」
父「むずかしい事はわからんけど、生きている事を楽しむことやないか。今ある最も平凡な暮らしにそそ平和な暮らしがあるんじゃないか?その為にはひとりを大切に地域の隣人を大切に友情を育む事が平和に生きる事じゃないか?日本人は聖徳太子の時代から十七条憲法でも『和をもって尊しとなし・・・』と言ったじゃないか。日本人は昔から相手を重んじてきた国民だ。多少の苦労はあったにせよ生きてさえいれば良かったと思える日がきっと訪れる。残念ながら、今さえ良ければ、自分さえ良ければいいと思う人には幸せに生きるための道は開かれない!むずかしい事はどうでもいい。地位や名誉を重んじる人間はだんだんとあきが来る。三途の川を渡るのも六文銭があればいいからな。今が一番と思って日々の努力を尽くして乗り越えることが大切だと思う。平和な暮らしとはこんなもんじゃないか?戦時中に比べたら、人の心が薄らいできたのが心残りじゃが・・・ 皆さん、とにかく元気を出して頑張って下さい!またいつか再会できる日までお先に失礼します。ワッハッハ!ばあさんと仲良くしてあげて下さい。よろしく頼みます。」

そんなふうに父の声が聴こえてくるのです。

 人の喜びを我が喜びとし、利他の精神(他人の利益を優先にする考え)にて、苦悩する人に寄り添い、それでいて見返りを求めない限りある人生を最期までユーモアたっぷりに生き抜いたそんな平凡な老人が皆様のおそばで暮らしていたことを時折思い出して頂けましたら故人も喜ぶことでしょう。

 ゆく秋の寂しさをしみじみ感じるこの頃・・・主のいない家に渡り鳥がやってくる事でしょう。自然が好きだった父はあの世でどんな句を詠んでいるのだろう・・・。ぜひ父と話してみたいと思いました。
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椎葉平家まつり

椎葉村情報
10 /28 2016
平成28年11月11日(金)・12日(土)・13日(日)、宮崎県椎葉村にて『椎葉平家まつり』が催されます。

お問合せ先:椎葉平家まつり実行委員会事務局(椎葉村役場地域振興課)
TEL:0982-67-3203
ホームページ:http://www.vill.shiiba.miyazaki.jp/


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おつるちゃん、奈良正倉院展へ

おつるちゃんの旅
10 /25 2016
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人の喜びをわが喜びとし、利他の精神(他人の利益を優先にるる考え)にて苦悩する人に寄り添い、それでいて見返りを求めない、限りある人生を最後までユーモアたっぷりに生き抜いた父だったと思います。

私:「親孝行もっともっとしたかった」

父:「親に孝行なんているもんか!親に孝行する暇があれば、他人を大切にしろ。立派に生きてさえいればそれでいい!」

私が七転び八起きの精神で立ち上がることが出来たのは、父と母の生きる姿にありました。
父は脳梗塞で倒れ、8月15日終戦記念日をあえて選んで他界したように思います。
生前の父はよくこんなことを話していました。
「赤紙が届いたその日に終戦となり、8月15日がどれほどありがたいか」と。

父が亡くなり49日の法要が済み、少しずつ気持ちも前向きに変わりつつある今日、奈良正倉院展へ行ってみました。

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私は毎年、正倉院展へ出掛けます。
天平文化に見とれますよ!

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枚方に住んで幸せです。
京都、奈良、どちらのアクセスへも便利なんです!

椎葉工務店

椎葉かな子が、椎葉村観光大使として想いを綴ります。

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